12月6日

夜、新宿、中川君に会う。「ガンジー」でビーフカレー食う。
シネマートで山下敦弘『超能力研究部の3人』見る。
フェイクドキュメンタリーというこの映画に、秋元真夏生田絵梨花橋本奈々未の3人のジャジャマル・ピッコロ・ポロリへの生成変化を期待した。しかし、秋元真夏とヤンキーたちとのシーンで頂点を迎え、この映画は失速する。
このシーンでの秋元真夏生田絵梨花は素晴らしい。というのはこのとき秋元真夏は別のなにものかに成りつつあり、生田絵梨花のたがは外れつつあったからだ。そしてこのシーンの終わりにスタッフから秋元真夏へ盛大な拍手が送られ、ここでこの映画は終わってしまったのだ。
それは山下敦弘が、3人への興味を失してしまったからか、あるいは、3人がなにか別のものに変わってしまうことの責任を負いきることができなかったからである。恐らく後者であり、あるいは前者と後者は表裏一体である。監督として、秋元をなにか別のものに変え、生田のたがを外してしまうことに対する責任の重さ。恐らくは、その重さに耐えきれずに今回もまた山本剛史という山下作品常連の、いわば山下敦弘の分身であるような存在を導入してしまう。
山本剛史は例のごとく茶番劇を繰り広げる。それは面白いことには面白いのだが、決して映画的に暴力的な、危機的笑いではなく、あくまで安全地帯の笑いである。それは秋元、生田、橋本が別のものに変わりつつある状況に対して、「冗談じゃないか」と安定をもたらそうとする笑い。さらにはその茶番劇に山下監督自身が加担してしまうことによって、もはや観客はこの映画の演出/偶然に真摯に向き合うことはできない。「冗談じゃないか」と言ってしまうことによって、以後あらゆる偶然性は殺されてしまう。スタッフ、キャストも馴れ合いの共犯関係を結ぶ。たとえそれが本当に偶然起こったことであったとしても、すべては監督のコントロール下にあるものとして扱われ、観客はもはやその偶然に期待することはできない。
『その男、狂棒に突き』のラスト、部屋でひとりこめかみに自ら拳銃を突き付けながら、全裸でマスターベーションをする山本剛史は良かった。山下敦弘の分身である山本剛史がそのとき語っていたのは、現代の多くの映画作家が同じく抱えているであろう諦念、「カサヴェテスのようにはできない」ということだろう。
山下敦弘の不幸(?)とは、それでもなお「人間」を撮ろうとすることかも知れない。「映画は人間を撮るものではない」とは黒沢清の言葉(この言葉を鵜呑みにしてはいけない)。山下敦弘の初期短編集のいくつかの作品はより面白かった。それらは「人間」を撮ろうとしていなかったからかも知れない。
しかし、「人間」をやめたそのとき、根底にあるのはいつも死、死、死・・・地獄の生成変化である。「はやく人間になりたい・・・」
来週は乃木坂のライブ。楽しみだ。

ガンジー
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