「セントラル・パーク」 フレデリック・ワイズマン

駅から大学まで毎日15人は追い抜く。歩く速さにはちと自身があるそんな僕を、軽々と追い抜いていくニューヨーカーたち。ニューヨークの速さには圧倒された。
信号無視は当たり前だ。ゴミの分別も必要ない。時間のムダだ。遅い奴は置いていかれる。
それでもって、ほとんどの地下鉄の駅にはエスカレーターがない。ほとんどのトビラが重い。この街で生きるのはとにかく厳しい。地下鉄の車内でチョコバーを売る黒人。街角のホームレス、そしてミッキーやミニー、エルモやクッキーモンスターさえペニーを求めてくる。渋谷なんか止まって見える。

アロハシャツを着て、石原裕次郎のような巨大なサングラスをかけた、関西の胡散臭い大学院生。「ビッグアップルホステル」で同じ部屋だった彼が、「セントラル・パークの奥は止した方がいい。夜中にはFBIとマフィアが銃撃戦をやってるらしいからね。地球の歩き方にも書いてある」と言っていた。
だから(「だから」ということは全然ないのだが)僕は、セントラル・パークよりも、ホステル近くの小さな「ブライアント・パーク」で、椅子に腰かけてずっと呆けていた。この街はオイラにはちと速すぎる。

ユーロスペースでやっているフレデリック・ワイズマン特集で「セントラル・パーク」を見た。
セントラル・パークには入口から300mほど入っただけだった。奥まで入っていないので、どのようになっているのか分からないが、本当にあの大学院生が言っていたように「FBIとマフィアが銃撃戦をやっている」のかも知れない。だから(「だから」ということは全然ないが)ワイズマンの「セントラル・パーク」もそういった、銃撃戦とか、犯罪とか、セントラル・パークの闇を描いたフィルムなのかと思っていた。それに、速くて厳しい街のことだから、街角の至るところに目につくホームレスとか、激しい競争とか、そういった点も当然映されているのだろう、と。
しかしだ。南北4km、東西0.8kmという広大なセントラル・パークを象徴するような、176分という長さのこのフィルムには、銃撃戦も、殺人も、麻薬の取引も映ってはいなかった。ほんの数カットだけ映るホームレスや、小さないざこざで逮捕された青年の姿を除けば、ネガティブな印象を与えるものはほとんどない。176分の大部分を占めるのは、芝生で寝転がる市民、楽しく遊ぶ子供たち、バスケをする黒人たち、踊っている人、歌っている人、楽器を演奏している人、フライド・チキンコンテスト、恐竜コンテスト、(ゲイ&レズビアン・パレード)・・・などなどポジティブで、本当に楽しそうにしている人々の姿ばかりだ。それらは、ニューヨークの街の速さと厳しさからは程遠く、ただただ和やかでしかない。もちろん、セントラル・パークの管理局の資金不足による苦悩であったり、テニス・ハウスを残すか新築するかで言い争う人々だったり、和やかとは言えない場面も映し出されるのだが、セントラル・パークで憩う和やかな人々の姿は、そういった部分までも「なんとかなる」と思わせてしまうような、圧倒的な和やかさがある。
セントラル・パークはニューヨーク市民の憩いの場であり続ける。ラストに夕暮れの中で映されるメリーゴーラウンドが、そのことを断言している。
速くて厳しい、まるでムダのないニューヨークにおいて、莫大な面積をとり、維持費が半端なくかかり、それでいてTシャツ一枚売るのにも管理局の許可を必要とし、活発な経済活動が生まれることのないセントラル・パークが、完全な形で残り続けているのはすごいことではないか。