「フェア・ゲーム」 ダグ・リーマン

瑛太瑛太でしかないし、市原隼人市原隼人でしかない。侍を演じていたって、野球青年を演じていたって、彼らはいつでもどこでも彼らでしかない。横浜の天気予報にいつも映し出される「ランドマーク・タワー」を見るときのように、彼らを見るときには萎えさせられる。

フェア・ゲーム」のショーン・ペンは、ナオミ・ワッツは、そしてサム・シェパードは、しかし、彼らであって彼らではない。彼らは、ジョーであり、ヴァレリーであり、ヴァレリーの父であるばかりではなく、僕らであり、僕らの妻であり、僕らの父だ。
「クアラルンプールタワー」や「ホワイトハウス」といったランドマークや、「ブッシュ」、「フセイン」、「イラク戦争」・・・といった固有名が出てくるとき、それはその場所、その時代でしかない。しかし、ショーン・ペンが、ナオミ・ワッツが、サム・シェパードが、そこに登場するやいなや、僕らは枠(フレーム)の外を意識し始め、世界は広がりを見せ、そこは普遍的な場所となり、時代となる。
ジョー&ヴァレリー夫妻の家の中、そして、ランドマークも何もない、そこがどこだか分からないヴァレリーの実家は、より一層僕らの家であり得る。夫婦や親子というかけがえのない普遍的なものを守るために、「ホワイトハウス」という枠をぐにゃりと曲げようと、あるいは破壊しようとする姿は、どうしようもなく素敵だ。


フェア・ゲーム」全国のTOHOシネマズで上映中です。