「モデル」 フレデリック・ワイズマン

ユーロスペースフレデリック・ワイズマン特集をやっている。今日は映画1000円デイだったので「モデル」と「ボクシングジム」を見た。

「モデル」(1980)
ニューヨークのモデル事務所に所属するモデルたちや、彼らを取り巻くカメラマンやエージェント、撮影スタッフやデザイナーなど、あらゆる人間とその仕事模様が淡々と映される。この映画には主人公や中心人物などいないし、明確なストーリーもない。
この転々と変化する映像を見ていると、モデルの世界で、さらに言えば資本主義社会で成功するためには、自らの物語を、たとえそれが嘘であっても、積極的に語っていかねばならないということが、その外見の大らかさとは裏腹に、じわじわと伝わってくる。
たとえばモデル志望の若者は、自らを撮った写真を持参し、「フォーマルもカジュアルもどっちもいけます」などなど言って、積極的に自分を売り込まなければならない。自らの物語を語ることのない者は、「身長が170センチないなら話にならない」などなど言われ、門前払いを食らう。
ラストのファッションショーで舞台を歩く一人一人のモデルがすごく魅力的に見えるのは、自らが「モデルである」ということを、声に発さずとも、その歩き方、顔つき、服装、全てにおいて彼女たちが語っているからだろう。ただワンカットの中にも、彼女たち一人一人から物語があふれ出てくる。だから、このラストのショットの連なりには釘付けにされてしまう。

モデル、カメラマン、エージェント、撮影スタッフ、デザイナー、さらにニューヨークのあらゆる人々は皆、一個人として生きている。モデル志望の若者を見れば、モデル事務所に「所属」しようとするのではなくて、あくまで事務所と対等な関係で、個人と個人として「契約」するという意識を持っていることが分かる。事務所はモデルを商品のように扱い、決して社員を「守る」とかそういった発想はないようだ。受身でいると簡単に騙されてしまうような世界だと分かる。
またニューヨークの街角に映り込む、何やら芸をして金を集める者や浮浪者などを見ると、なお資本主義は甘くないと感じられる。


ユーロスペースでは、ちょうど空族の「サウダーヂ」もやっている。「サウダーヂ」の登場人物たちは、「モデル」のモデルたちとは逆に、受身的に生活しているために、騙され、騙されていることにさえ気付いていない。

「サウダーヂ」の登場人物たちのような生活を、まさに僕も地元でやっていた。
家にいるときはテレビを見る、遊び場といえばアピタ、外食はビッグボーイ、バーンズ、牛角、ココス、ガスト・・・全て国道沿いでまかなえてしまう、ワンパターンな生活。しかしその生活に満足させられてしまい、外の世界を知ろうとしない。
いや、地元だけではなくて、都会に出て来た今もそういった生活をしている。渋谷に行くと、いつもマクドナルドかはなまるうどんに入ってしまう。他にも選択肢は山ほどあるはずだ。しかし、マクドナルドとはなまるは、センター街のちょうどいい位置にあって、空間が僕を店の中まで誘導するし、味も僕の安っぽい舌を満足させるには十分な味で、オサイフにも優しいので、僕はそれなりに満足させられてしまうのだ。マクドナルドとはなまるは、僕にマクドナルドとはなまるが世界の全てだと思わせる。だから僕はマクドナルドとはなまる以外は関係のないことだと思い、それ以外は知ろうとしない。マクドナルドの前に、390円で食える海鮮丼があったのをこの目でちゃんと確認したはずなのに、今日も気付いたらマクドナルドのハンバーガーを頬張っていた。
これは悲しい。これは大変なことではないか。甘くない。


渋谷ユーロスペースで上映中です
フレデリック・ワイズマン特集 http://jc3.jp/wiseman2011/index.html
サウダーヂ http://www.saudade-movie.com/