10月11日 同録の持続 溝口健二『残菊物語』

昼、銀座、東劇で溝口健二『残菊物語』見る。
アフレコが良いと思ったことはこれまで山ほどあるが、同時録音が良いとリアルに感じられたことはこれまであったろうか?ヌーベルヴァーグストローブ=ユイレの同録を経由してもそれをリアルに「良い」と思えたことはこれまでなかったように思う。つまり、なぜ彼らが同録にこだわるのかということを、政治的な意味として理解はできても、感覚的にその良さというものはこれまでわからなかったように思う。同録は当然、当然のように聞こえるから。
『残菊物語』を経由する。同録によってセリフと環境音が混ざりセリフがまったく聞こえないか所が多々ある。一方でセリフとセリフの間、沈黙が「持続している」と感じられる瞬間がある。そういえば、トーキーが始まって間もない頃の(30年代の?)同録には、ときどき何かただならないものがある。ルノワールの『素晴らしき放浪者』(1932)の放浪者やフォードの『周遊する蒸気船』(1935)の酔っぱらいの爺さんと同じような存在(2人とも"黙って"何かににぶら下がっていた記憶がある)として『残菊物語』(1939)の菊之助が見えるのは、この独特の同録による沈黙の持続のためだろう。お徳が黙って見守るなか、菊之助が"黙々と"スイカを切るシーン、あるいは火鉢に炭をくべるシーンは素晴らしい。このシーンで不条理にも菊之助が、でくの坊に見えてくるのがすごい。
帰り、鶯谷、神保町など回り、帰る。